花み屋のリアルとフィクション

花を観察している大学院生のフリースペース

ショートショート

松 第5話

逃げるように部屋を出たショウコは廊下の突き当たりで立ち止まり、泣きたい気持ちに襲われた。昔から、何度も絶とうとして絶てなかった熱く燃えるような想いが彼女の胸を焦がす。あのときはあんなに楽しかった、こんなに幸せだった、という昔を懐かしみ、願…

松 第4話

智之が一階に降りていくと、ちょうど居間からショウコが出てきた。 「おはようございます」とショウコが笑顔で挨拶をする。 智之は挨拶を返しながら、昨日の無表情と打って変わったショウコの笑顔が気になった。しかし、先ほどの首に巻き付いていた髪のせい…

松 第3話

翌朝早く、ショウコは目を覚まし、自分に布団が掛けられていることに気が付いた。むくりと起き上がり、辺りを見回す。智之の姿はどこにもない。ショウコは、しばらくの間、その布団を両手で掴んで見つめていた。ショウコには、智之の優しさが嬉しく感じられ…

松 第2話

夜、ショウコはヒタヒタと廊下を歩いていた。窓から差し込む月明かりが彼女を照らす。ショウコは深緑色のワンピースを着ており、その袖や裾からは浅黒い肌の手足が出ている。彼女は何かを探しているようで、扉があると、一つ残らず、中を覗いていく。しかし…

松 第1話

智之(ともゆき)の家には、樹齢百年を超える松がある。家の南側に立つそれの、赤茶色の凹凸のある樹皮や緑色の針のような葉には、堂々とした存在感がある。智之は、自分の背丈を超えるその松が幼い頃から大好きで、大人の目を盗んで登ったこともあった。 けれ…

とある農民の物語(後半)

前半へ戻る 「私が死んだ次男のことを考えなくなって数年経った頃、一人の青年が私の家の前で行き倒れていた。畑に出ていた私と長男は夕方になって畑から帰ってきたときに、その青年が道端に転がっているのを見つけ、家の中に運び込んで、妻を呼んだのだった…

とある農民の物語(前半)

一人の老人がある宿で話し始めた。 「私は北の方から来た。農家の次男として生まれ、五十年間畑を耕してきた。子供の頃から何か特別なことができたわけでもないし、今、このときまでに特別な経験をしたわけでもない。だから、これから私が話すことは何の意味…