花み屋のリアルとフィクション

花を観察している大学院生のフリースペース

松 第2話

 夜、ショウコはヒタヒタと廊下を歩いていた。窓から差し込む月明かりが彼女を照らす。ショウコは深緑色のワンピースを着ており、その袖や裾からは浅黒い肌の手足が出ている。彼女は何かを探しているようで、扉があると、一つ残らず、中を覗いていく。しかし、探し物は見つからないようだ。無表情のまま幽霊のように静かに家の中をさまよっていく。

 

 夜、一二時、智之は大学のサークルの仲間の車から降りた。その友人に手を振り、車が去っていくのを見届けてから、自分の家の玄関に向かう。普段の門限は一〇時だが、昨日から両親は旅行に行き、一週間は帰ってこないため、家には誰もいないのだ。彼は楽しそうに口笛を吹きながら、玄関の鍵を開けて、中に入った。手探りで鍵を掛ける。彼は後ろ向きに玄関に上がった。振り返って、電気を付ける。

 目の前に顔があった。

 智之は短く叫んだ。思わず、玄関まで後退り、あらためてそこにいる人を見た。

 そこにいたのは、緩やかに波打つ真っ黒な髪を膝の辺りまで垂らした女だった。緑色の服に身を包み、じっと智之を見ている。智之は玄関のドアに背を付け、幽霊か犯罪者かと考えた。女は微動だにしない。口は真一文字に閉じられたまま何も言い出さない。智之は恐る恐る、身を前に出し、尋ねた。

「君、誰?」

 女が一言答える。

「ショウコ」

か細いがよく通る声だった。智之が、名前の漢字を聞くと、ショウコは、分からないと答える。家がどこか、どうしてここにいるのかを聞いても、首を振るだけだ。智之はショウコが精神異常者なのか、記憶喪失の人なのか判断しかねた。取りあえず、彼は再び玄関から上がり、

「こっちに来なよ」と言った。

 ショウコは眉を少しあげた。しかし、彼女の反応はそれきりだった。彼女は何も言わずに智之と少し間を置いて後をついていく。智之はショウコを居間の座布団に座らせ、茶を出し、その向かいに座った。ショウコは始め、興味深そうに辺りを見回していたものの、しばらくすると、硬く口を結んだままじっと固まった。

 あらためて智之が何を聞いても、彼女の返答は、分からない、という言葉だけだった。困り果てた智之はため息をついて立ち上がった。警察に通報するべきかを考えながら、隣部屋の台所に立ち尽くす。そして、ふと彼女がどこから入ったのかが気になり、居間に戻った。

 智之が扉を開け、部屋に入ると、そこで彼女は寝ていた。仰向けに、まるで死人のように手を胸の上に組んで静かな寝息を立てている。卓袱台(ちゃぶだい)の上の湯飲みには手が付けられた様子がなく、彼女の黒髪と緑色のスカートの裾が、畳に扇形に広がっている。部屋で聞こえるのは、時計の針が進む音と彼女の規則正しい寝息だけだ。

 智之は困ったように頭を掻き、彼女の寝顔を見た。長く黒い睫毛が、智之が立つ居間の入り口からも見え、浅黒いのに透きとおるような透明感のある頬が綺麗だった。軽くため息をついた智之は、押し入れから薄めの布団を一枚持ってくると、それを彼女に優しく掛けた。もう一度、彼女の顔を見る。人間離れしたほど整った顔だった。

 智之は、どうしたものかと考えながら、部屋の電気を消し、廊下に出る。彼は二階にある彼の部屋に行く前に、窓という窓を全て確かめてみたが、どれ一つとして、鍵が開いていたり、こじ開けられたりしているものはなかった。

 

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