花み屋のリアルとフィクション

花を観察している大学院生のフリースペース

松 第3話

 翌朝早く、ショウコは目を覚まし、自分に布団が掛けられていることに気が付いた。むくりと起き上がり、辺りを見回す。智之の姿はどこにもない。ショウコは、しばらくの間、その布団を両手で掴んで見つめていた。ショウコには、智之の優しさが嬉しく感じられたものの、昨夜、彼が、自分が誰かに気が付いてくれなかったことの悲しさが大きかった。ふとショウコは立ち上がり、窓の外を見た。すぐ目の前に大きな切り株があった。四〇センチほどの直径で、周りには松の葉が少し散らばっている。表現しようのない熱いものがショウコの身体の中で膨張する。ショウコはくるりと踵を返して、部屋から出ていった。

 彼女が廊下を歩いていると、頭上で目覚ましのアラームが鳴った。ショウコは立ち止まり、天井を見た。上でベッドが軋み、アラームが消される音がした。ショウコは前に向き直り、再び歩き始める。彼女の歩みは、彼女の心のように静かだった。

 しばらく行くと、廊下の突き当たりに二階への階段を見つけた。彼女はそれを全く音を立てずに上がる。階段を昇りきったところには、半開きになったドアが一つあり、そこから、ベッドに寝転がる智之の姿が見えた。片手をベッドから垂らして寝ている。ショウコはドアの隙間から、部屋に足を踏み入れた。床に散らばっている服や本、ゲームを避けて、智之のベッドの脇に立つ。彼女の顔には表情がない。しかし、どこか剣呑とした雰囲気がある。

 反対に、彼女が見つめる智之の顔は、安らかそのものだった。真っ直ぐに通った鼻筋と角張った顎が特徴的で、口は力なく半開きになっており、そこから白い前歯が僅かに見える。耳の下から首、肩に掛けて張っている筋が逞(たくま)しさを、くっきりとした眉が凛々しさを感じさせた。

 ショウコは、じっと智之を見つめ、幼少の彼を思い出す。幼い頃の彼は、女の子と見間違えるほどであった。それなのに、いつの間にか彼は成長し、変わってしまった。そう思うとショウコは切なくてたまらなかった。今では、彼女の名前を聞いても何とも思わないほど、彼が彼女を忘れてしまったことが辛く、悲しかった。彼が約束を破って、自分を殺すならば、死ぬ前に、自分で彼を殺すつもりだった。

 ショウコは、死人との別れを惜しむ人のように身をかがめて、彼の顔に自分の顔を近づけた。彼女の長い髪が智之の身体に掛かる。鼻と鼻が触れあいそうなほどの近さまで顔を近づけ、彼の顔を間近に見る。彼女は一旦、止まった後、目を瞑(つむ)り、彼に口づけをするかのように首を傾(かし)げた。いつの間にか、智之の身体に触れていた彼女の長い髪の一本一本が個々の生き物のように動き出していて、次々と智之の首に巻き付いていく。ショウコは相変わらず安らぎを求める人のように目を瞑ったままの智之の顔に、かろうじて触れないほどの近さで動かない。ショウコの全ての髪は彼の首に巻き付き終え、徐々にその巻き付く力を強めていく。

 そのとき、突然、智之の枕元の目覚ましが静寂を破った。

 即座に身を引いたショウコの髪は一瞬にして彼の首から離れ、彼女は素早く部屋を出る。智之は、無意識のうちに叩くように目覚ましを止め、しばらく夢と現実の狭間を行き来していたが、ふと先ほど首に何かが触れていた気がして飛び起きた。しかし、辺りには何もなく、誰もいない。少し緊張した面持ちで辺りを見回しても、部屋に誰かが入った形跡もない。智之は、夢か、と自分に半ば呆れながら、再び寝転がり、首に手の平を当てた。そして、彼は固まった。

 首に何かが巻き付いている。

 紐だろうか、と引っ張ってみるとそれは一本の長く、黒く、細い髪の毛だった。彼の首に二重三重に巻き付いている。丁寧にそれを首から取り、彼は驚きの眼差しで見つめた。その髪は、今にも動きそうに軽く波打っている。

 これはどういうことだろう、と智之は考えた。すぐさま、昨夜のショウコが思い浮かぶ。とはいえ、彼女が何かをしたという証拠はない。

 智之は不気味に思った。同時に、どこか惹かれる謎だとも思った。今朝、警察に彼女を連れて行こうと思っていたが、彼は好奇心から、考え直して彼女をしばらく家に置いてみようと考えた。少なくとも両親が帰ってくる一週間後までは、彼女が家にいても何ら問題はない。彼は起き上がり、髪の毛を机の中にあった小瓶に入れた。

 

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