花み屋のリアルとフィクション

花を観察している大学院生のフリースペース

松 第5話

 逃げるように部屋を出たショウコは廊下の突き当たりで立ち止まり、泣きたい気持ちに襲われた。昔から、何度も絶とうとして絶てなかった熱く燃えるような想いが彼女の胸を焦がす。あのときはあんなに楽しかった、こんなに幸せだった、という昔を懐かしみ、願う心が、まとまりのない映像を彼女の頭の中に駆け巡らせる。どうして、今はこうなのだろう、という悲しさが堪(こら)えようもなく沸き上がる。

 彼女は、その場に座り込んだ。今朝の目覚める前の彼の顔が思い出される。そして、あのまま殺していれば良かった、と思った。たとえ、彼が叫ぼうとしたとしても口でふさいで、窒息させてしまえば良かった。いや、昨夜のうちに殺してしまえば良かったのかもしれない。方法はいくらでもあった。彼は永遠に彼女のものとなったはずなのに。

 でも、もう彼女は明日まで生きてはいられない。今、ここで彼を殺す力もない。ああ、百年生きても人を思い通りに動かすことはできない。何のために今まで生きていたのか。

 ショウコは切望するように天井を仰ぎ見た。そのとき、目の端に何かが写った。目の前を見ると、そこには棚に載った一つの花瓶があった。一枝の松が生けられている。間違いなく、庭にあった松の枝だった。

 後ろで足音がしてショウコが振り返ると、遠慮がちに立つ智之がいた。

「それは僕が生けたんだ。君は松を切ったことが気に障ったのかもしれないけど、僕はあの松を愛していたよ。」

 振り返ったショウコは泣き溢れそうな笑顔を見せてから、その場に倒れた。微笑みが、彼女がそのまま寝入ってしまったように見せた。しかし、今朝よりも青白くなっている顔色が、ただ彼女が寝たわけではないことを物語っている。智之は慌てて、何か薬を持ってこようと居間に戻った。

 しかし、彼が廊下に戻ってきたとき、そこにショウコはいなかった。彼が家中を探しても、ついにショウコは見つからなかった。

 

 

 旅行から帰ってきた両親を智之は外で出迎えた。彼らは、一週間ぶりに庭を見て、

「やっぱり何だかんだ言っても長年あったものがなくなると違和感があるものねぇ・・・」と言った。

「母さんが『松子(しょうこ)』と呼んで大切にしていたからなぁ・・・」

 智之は、はっとした。遠い夏の日の記憶が蘇る。

暑い夏の日、あの松の下で、幼い智之は祖母と一緒に座っていた。心地よい日陰の中で、祖母は彼に聞かせてくれた。

「この松には松神様がいてね・・・。『松子』と言う名前の方なんだよ」

 幼い智之は、ふーん、と感心するように聞いて、急に立ち上がり、

「じゃ、僕、松子と結婚する!」と大声で言った。「だって、僕、この木、大好きだもん!」

 祖母は驚いたようだったが、すぐに笑顔になった。

「そうかい、そうかい。松子も喜んでいるよ」と祖母は言った。

 

 

 ああ、と智之は緑色のスカートと浅黒い肌を思い出した。彼は、庭で話し込んでいる両親を放って、ゆっくりと自分の部屋に向かった。静かに机の引き出しを開け、小瓶を手に取る。その中には、彼の首に巻き付いていた長く黒い髪の毛はなく、無数の松の葉があった。

 

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