花み屋のリアルとフィクション

花を観察している大学院生のフリースペース

博士課程への進学を前に

 こりゃ、やめらんない。

 この一言が、一昨年に卒業論文、今回の修士論文を提出した直後の感想だった。卒業論文修士論文も、書き上げるのは大変だったが、同時に楽しくて仕方なかった。この感覚があるため、私は来月、博士課程に進学する。とはいえ、これまで、迷いなく一途に博士課程への進学を目指してきたわけではない。学士号、修士号の区切りで、大学を去ることを考えた回数は数知れない。この迷いは、「博士号を取得することがどういうことなのか」という問いに対する自分なりの答えがなかったからだと思う。研究活動が好きという理由だけで、進学し続けて良いのだろうかと迷っていた。
 博士号を取得することがどういうことなのか。今までの大学生活の中で、この疑問について深く考えさせられた機会が3回ほどあった。1回めは、以下の動画を見た時である。

創作童話 博士が100人いる村

この動画は、博士課程に進学した全ての人が満足のいく進路を得られるわけではないことを示している。これを見たのは学部1,2年の頃で、少々衝撃を受け、博士号の取得がゴールではないことを学んだ。ここから、私は、悩むことがあっても、悩み抜きながら自分に正直に生きることで後悔しない進路選択をしようと考えた。

 2回めは、「修士号はその時その分野で日本一、博士号はその時その分野で世界一」であることが求められると初めて聞いたときだった。当時、学部4年だった私は、卒業研究を始めたばかりで、修士課程修了時にその分野で「日本一」になれる気が全くしなかった。しかし、先日、修士論文を書き上げ、漠然と、この分野で「日本一」くらいにはなったのではないかと感じられた。修士論文を書いている間の、一日中、参考になりそうな論文を片っ端から読み、自分の研究と比較し、考えた経験は確実に身になっている。今なら、修士課程で取り組んだ分野について、ベテランの研究者とまともに議論できる自信がある。きっと、これからも頑張れば、「博士号はその時その分野で世界一」という言葉を実感できるようになると自信がついた。

 3回めは、「博士号とは何か」を図で説明した以下のサイトを見た時だった。

The illustrated guide to a Ph.D.

このサイトは、全人類の知識量に対して、修士号や博士号を取得した時に得られる知識量のあり方を解説している。その中で、博士号と大それたことを言って見ても、博士課程で得る知識は、全人類が持っている知識量に比べれば、ほんのわずかであることが示されている。私は、この説明を見て、博士号は、ある一点を極めたことに対する称号であり、すべての分野のすべてのことを把握する必要などないことを理解した。また、ある分野における一点を極めることが人類にとっての価値につながることが分かった。もちろん、この一点を極める作業が大変なのだが、気負いすぎる必要はないのである。このサイトから、興味を持っている分野を突き詰める意義を教えられた。

 これらの3回の機会を通して、私は、「博士号の取得」とは、常に努力をし続けることで、ある分野の一点を極めたことに対する称号を得るというだけであり、決してゴールではないことを学んだ。そして、博士号の取得後、希望通りの生活していくことは、誰にでもできることではないことを強く感じた。私自身も博士号を取得できるか、できたとして希望通りの生活が送れるかは分からない。しかし、私は研究活動が好きである。私が、好きな研究活動を続けることで、人類の知識がわずかにでも増え、何かしらの役に立てることがあるならば、それは私にしかできない仕事になる。これを目標に、楽しみながら頑張りたい。その一歩が博士課程への進学である。

 

 思い返せば、私が最初に、博士課程に進学することを考えたのは、高校1年生の文理の進路選択のときだった。小説家になるか生物学者になるかを天秤にかけ、生物学者になる方を選んだ。それから幾度となく迷いつつも、大学に残り続ける選択をした。後悔はしていない。これからも、もし、博士課程を途中でやめたとしても後悔はしない。