花み屋のリアルとフィクション

花を観察している大学院生のフリースペース

やらかしたけれど無事だった話

 成人してから今までで、最も「やらかした」事件は、借りていた教授の車で衝突事故を起こし、廃車にしたことだった。今でも、その事故が今でも最大の「やらかし」である。しかし、今日、もう一歩でそれを塗り替えるようなことをやらかした。
 やらかす兆しはあった。第一に、この1週間、修士論文の大詰めでとても疲れていた。第二に、修士論文の提出日に、タイに向けて出国するという少々橋渡りなスケジュールに気を取られていた。飛行機に搭乗する前に、空港からメールで修士論文を提出し忘れないようにしなくては、とずっと考えていた。第三に、今日で修士論文が一区切りつく、という気の緩みがあった。第四に、海外渡航は珍しくないので準備は、いつも通りで良いよね、という慣れが生じていた。
 このように、日常的に疲れている状態が続いているとき、何かに慣れてきたときに何かを「やらかす」のが私である。24年間生きてきて、それなりに自分の質は把握しているつもりだった。この自覚があったからそ、昨晩は、何かやらかすかもしれないと思い、いつも以上に慎重に準備をした。必需品のパスポートは真っ先にカバンに放り込んだ。
 そして、今朝、寝坊はせず、特に焦ることもなく予定通り2時間前に空港に着いた。途中、2週間滞在するのに爪切りを持ってくるのを忘れたことを思い出したが、そんなものはタイに着いてからどうにでもなるので大したことではなかった。私は、出国手続きを済ませて、搭乗ゲートの前でゆっくり修士論文の提出をしようと考えていた。チェックインカウンターに向かう前に、印刷した予約詳細の用紙とパスポートをリュックから取り出した。そして、気づいた。

 パスポートにパンチングが空いている。

 すぐに察した。これは昨年秋に失効した旧姓のパスポートである。一瞬、旧姓パスポートとはいえ、私のものには違いないし、いけるのでは、という考えがよぎった。いけるわけがない。この時点で出発時間まで1時間半。一気にアドレナリンが全身を駆け巡るのがわかった。私は転げ落ちるようにエスカレーターを下り、タクシー乗り場に走った。タクシーの運転手さんが降りてくるより早くスーツケースを自分でトランクに放り込み、「高速を使って、○○(自宅)まで行ってください。できるだけ早くお願いします」と言った。タクシーで速さを要求したのは人生で初めてであった。
 タクシーの運転手さんは、私の形相を見てすぐ察したようである。
「パスポートですか」
「そうです。旧姓のパスポートを持ってきてしまいました」
「ああ〜そういう方、以前もいらっしゃいました」
 他にもいるらしい。つまり、改姓したらパスポートを作り替えなくてはいけない制度を廃止してほしい、と思ったのは私だけではないはず、などと考えながら、私はタクシーの中で修士論文を提出した。修士論文を提出してやったぜ、という解放感はなかった。私の解放感は飛行機に乗れてこそ、得られるはずのものであった。
 タクシーの運転手さんもプロの腕の見せ所なのか、女子大学生に頼られたら良いところを見せたいのか、頑張ってくれた。おかげさまで1時間で空港と自宅を1時間で往復することができ、予定通りの飛行に乗ることができた。
 今回のこの「やらかし」は、タクシーの運転手さんとチェックインカウンターの人に迷惑をかけるだけで済んだ。飛行機に乗れていなかったら、教授を含む、今回のタイでの植生調査のメンバーに迷惑をかけることになっていただろう。「やらかした」ことには違いないのだが、当初のスケジュールに軌道修正できたので、これまでの「やらかし」ランキングの1位を塗り替えることはなかった。本当に良かった。やはり疲れているときは気をつけようとしても気をつけられないので、疲れる前に休むか、やらかさないスケジュールを組むようにしなくてはいけない。

 今度から今回利用したタクシー会社を優先的に利用しようと思う。そんなことを考えて、機内食グリーンカレーとそばとスイートポテトを頬張りながら、修論が一区切りついた嬉しさをやっと味わえた。