月にも浪にも放れない

植物を観察している大学院生のフリースペース

無自覚な性差別の現場に居合わせた思い出

  「これだから女は…」という呆れの言葉。これは、往往にして、自身にとって気に入らない女性の言動に対して発せられる。その言葉の主としては、男性がイメージされやすい。しかし、実際のところ、この差別的な言葉は、常に男性から発せられるとは限らない。

 近年、男性には、性差別を抑止する動きが強く働き、効果を発している(過剰なときもある)。妙なことを口走れば、差別だ、セクハラだと訴えられる可能性があるので、言葉に気をつけている男性が多い。一方で、女性の一部は、守られる側にあることで、性差別の問題に対して無頓着な人がいる。このような女性は、若い世代、特に女子大学生に多いように感じる。

 数年前の記憶だが、ある女子大学生(知人でもなんでもない)は、大学の女性教員の言動に対して「これだから女の先生は…」と、躊躇なく言った。なぜなら、その女性教員の言動が気に入らなかったからである。誰かが自身にとって不都合な言動をした時、腹ただしい気持ちになるのは理解できるが、その言動自体は女性特有のことではないはずである。なぜ「女」の先生に対して文句を言うのか。男性教員の中にも、自身にとって不都合な言動をする人はいたはずだ。しかし、彼女は、その事実に気づいていなかった。自身の発言が差別的であることにも気づいていなかった。

 このように、女子大学生が無意識に差別的発言をしてしまう現状は、見方を変えれば、性差別を意識しなくて済むくらい差別を経験してこなくて済んだということかもしれない。しかし、現代において性差別は確かに存在しており、その問題意識は持ってしかるべきである。特に、これからの社会を担う若者が問題意識を持つことは、非常に重要だろう。

 このような出来事に遭遇した私は、「性差別は男女間のみの問題と捉えられるが、同時に、同性同士における問題でもある」ということを強く感じた。同性が同性の可能性を制限するのは、あまりに勿体無い。ただ、この問題の根本的解決は非常に難しいだろう。それでも、少しずつ身近な人と問題意識を共有していくことで、「若者に問題意識がない」という現状を改善していけたらと思う。

 

 

 私のこの文章を読んで、そんな一言に過敏だよ、と思う人がいるかもしれない。しかし、私は誰かに「これだから女は…」と言われたら、それが異性であろうと、同性であろうと、その場で怒る。もしくは、悲しくなる。ある言葉を、自分が言われる立場を想像して、性別で判断されるなんて理不尽だと感じたら、それは立派な性差別だと思う。